Type 97 Medium Tank made in Japan
Chinese People's Liberation Army “GONG CHEN HAO (Meritorious retainer)
九七式中戦車
中国人民解放軍“功臣号”

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 1945年に日本が降伏した後、中国大陸に在った日本製兵器の相当数が中国共産党の手に渡り、国民党との内戦に使用された。
 なかでも有名なもののひとつが、この「コンチェンハオタン。 →実車解説
 いわゆる「チハ改」かと思うが、よく見ると前期型車体に新砲塔を載せたVer。だからこの車輌を作るには、「九七式改」と「九七式」、ふたつのキットが必要になってしまうのであった。

 当時、生産ライン切り替えの都合で、一時期こういう車輛が作られてしまったらしい。これとは逆に後期型車体に前期型砲塔を載せた車輛も存在したので、あまった部品でそっちのほうも作れば無駄にならない。

 中華人民共和国の国旗「五星紅旗」は紙製。パソコンからインクジェットプリンタで出力。
 マーキングは、ドラゴンやトラペのキットをあさったけれど、ちょうど良いのがなかったので手書き。「功」の字がいまひとつ上手くいかなかった……。

 ほとんど素組。改造点としては、前部泥除け(ちょっと延長すればいいかと思ったが、よく見ると全体に角ばっているのでそっくりプラ板で作り換え)、砲塔位置をちょい左寄せ、機銃手用ハッチ埋め、製造銘板削り取り、くらい。


 フィギュアは「ソビエト戦車兵小休止セット」箱絵左上の「操縦兵」を改造。
 顔がもろロシア人だったので、鼻とか額とか顎とか削ったりしたけれど、いまひとつ中国人ぽく見えないなあ……。


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コンチェンハオタン 実車解説

「功臣号」の実車は、今も北京の中国人民革命軍事博物館に展示されている。
(中国人民革命軍事博物館のサイト)
人民解放軍装甲兵歴史上的第一車--"功臣号"坦克
http://www.chinamil.com.cn/item2/jb/bqg/57.htm
 解説によると、この戦車は奉天(現・遼寧省瀋陽市)の工場にあったものだという。
 日本軍が降伏するや、東北民主自治軍のカオクォ率いる隊が工場を押さえた。国民党軍が来る前に日本軍の戦車を持ち去ろうとしたのだが、すでにろくなものは残っていなかったようだ。
 高克は十数日かけて戦車2、装甲車2、牽引車2、自動車1を整備させ、奉天を脱出。
 しかし、道中は頻発する故障に悩まされ、また潜入工作員や日本人捕虜のサボタージュなどにより、せっかく持ち出した車輌のほとんどを失ってしまった。
 増援に来たスンサンの騎兵隊と合流し、ようやく共産党軍の陣地へ持ち帰ることができたのは、九七式中戦車一輌のみだった。しかし、出迎えた兵士たちは戦車を取り巻いて驚喜したという。

 この一輌の戦車をもって、人民軍最初の戦車隊である東北戦車大隊が結成された。
 戦車が一輌しかなくても大隊。孫三が大隊長、高克は副大隊長になった。

 その後、匪賊討伐や三下江南戦役などに参加したものの、この戦車はすでに旧くてガタがきており、「ラオトウタン(年寄り戦車)」などというアダ名をつけられてしまった。

 1948年、遼瀋戦役における錦州攻撃で、東北戦車大隊は、初めて大規模都市攻略戦に参加した。
 激戦の中、三輌いた僚車は撃破され、「老頭坦克」もまた損傷し停止してしまった。だがその時、戦車を飛び降りたトンライフウは、敵弾飛び来る中で修理を始めたのである。
 やがて突撃を再開した「老頭坦克」は防御線を突破、敵司令部に猛砲撃を加え降伏を迫った。
 戦闘終了後、第四野戦軍の司令部と政治部は、殊勲の戦車を「功臣号」と命名した。勇敢な戦車兵・董来扶も、砲手のウーペイロンとともに勲章を授かった。

「功臣号」は第四野戦軍とともに平津戦役に参加、ここでも戦功を立て、北平(現・北京市)入城式や西苑空港閲兵式に加わった。
 やがて中華人民共和国が宣言され、天安門広場で開国大典(建国式典)が催された。この時、「功臣号」は閲兵行進の先頭車という栄誉を得たのであった。

 日本製の戦車が、日本が負けた後も戦い続け、ついに中華人民共和国で建国の功臣になったという、嘘のような本当の話。
 国立博物館のサイトに載っているのだから、これが公式かそれに近い話なんだろうなと思う。というのも、ちょっと調べただけでも異聞異説が出てくるのです。
 なかでも面白いなと思ったのは、これ。

■新浪(sina.com)の記事
2004北京軍博紀實:坦克装甲車篇
http://jczs.news.sina.com.cn/2004-09-27/1114230763.html
 この記事では、高克と董来扶がたった二人で、奉天の戦車修理工場に潜入したと書いてある。
「すげー戦車だ!ちょっと乗ってみていい?」とか何とか言って、すきを見て正門に突進。阻止しようとした人をはね飛ばし、門扉を突き破り脱出した、と。

 話としてはなかなか面白い。軍人と少年(董来扶は当時17歳)とで兵器を盗み出し、しかも少年の方はそのまま搭乗者になって活躍する……
 ガンダムとか見過ぎw

 おそらく殊勲戦車の物語は、当時からも尾ひれ胸びれ付きで語られていたことだろう。宣伝のため、意図的に誇張した物語を流布したりとかも、あったかもしれない。
 高克らが戦車の入手に苦労したというのは事実だろう。しかし後に、ソ連軍が鹵獲・接収した日本軍の車輌や兵器が多数、人民軍に供与されている。客観的に見て、奉天の工場から持ち出した戦車の貴重度は薄れてしまっただろう。老頭だし。供与兵器の中には、もっと程度の良い戦車があっただろうことも、容易に想像できる。しかし、冒険的苦労により手に入れた戦車が活躍している、という物語のほうが萌えるよね。
 でも、朝鮮戦争でも武勲をたてた、なんて話はいくらなんでも無理すぎ。

■遼瀋戦役記念館
 実は、「功臣号」は北京にあるものとは別に、ここにもある。
 第四野戦軍が「功臣号」と命名したという故事の地、錦州である。
紅色経典:遼瀋戦役記念館 (2)
http://politics.people.com.cn/GB/8198/62358/62364/4326110.html
 これは、別の九七式中戦車に“功臣号塗装”を施したレプリカのようだが、旧車体に新砲塔、前部泥よけ延長と、北京の「功臣号」と同じ仕様。
 よく見ると、砲塔の左側に何かついているとか、微妙な違いはあるが。増加装甲にしては中途半端だし、物入れにしては小さい。いったい何だろうこれは。
 以前は転輪に白輪が塗られていたが、いつの間にかなくなったようだ。


 「功臣号」は、前部泥除け形状に特徴がある。
 博物館の車輌は(北京、錦州とも)、同じ形状だ。しかし、開国大典で閲兵行進する「功臣号」の写真を見ると、泥除けはオリジナルの短いものに見える。閲兵行進の後、殿堂入りまでの期間に、改造されたのか?
 もしかして、天安門広場を行進した「功臣号」と、博物館にある「功臣号」は別物ではなかろうか、などと想像してしまった。
 なにしろ「功臣号」は「老頭坦克」である。対外的にも超重要な晴れ舞台で、故障・擱座という醜態をさらすことを恐れて、別のもっと調子の良い車輌に“功臣号”と書き込んで代打に使ったとか?
 どこかに内戦中の「功臣号」の写真はないものだろうか?

2006.10.29

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